一九九四年 夏

 ぜぇ、ぜ、と、自分の肺が鳴る音がしていた。
 古くから続く東山の茶屋街、その中でもひときわ古い家屋の和室で、薄い布団の上に浅野は横たわっていた。
 寝間着にかわる薄い着物の胸が不規則に上下している。結うことも出来ない黒い髪が、白い寝床に散っていた。
 空調のない部屋は暑く、枕元には水差しが置かれていたが、浅野は決してそれに手をつけることはなかった。
(渇く)
 どこまでも渇いている。それを自覚している。けれど小さな水差しなどで潤うはずがなく。手をつけられるはずもなかった。
(乾いていく)
 指先を、天井にかざした。黒い木目、白い爪、血液の流れが阻害されているのがわかる。黒い瞳を苦しげに細めて、浅野はまつげを震わせる。
 ――このつらさは、ふる里のつらさだ。



 1994年、日本列島は、春から続く少雨から、記録的な干ばつに見舞われた。
 前年の冷夏とは正反対の天候を受け、2000年末までの観測において、最も降水量が少なく、また最も平均気温の高い年となった。
 九州や東海地方を中心として、断水が実施され、農作物への被害も甚大だった。
 どの地方でも、優美な川は無残な川底を晒していた。
 浅野も夏を迎えてほどなく倒れ、立ち上がることも出来なくなった。その苦しみにはどんな特効薬もない。
 渇きにあえぎながら、ただ、天の恵みを待つしかなかった。



「――さん! 浅野さん!!」
 身の回りの世話をしていくれている姐さんの、しきりに呼ぶ声で意識が呼び戻された。
「――さんが来られたよ! 浅野さん!!」
 枕元に、誰かが座る衣擦れの音がした。袴の音だ。肩幅の大きな影が見えた。
「……さいか……」
 あえぐように声をもらした、その声が己の意識を鮮明にした。
「!!」
 結んだ焦点の先にいた人物に、思わず浅野は身を起こす。
「ああ、そのままで」
 正座したまま浅野をいさめたのは、口元に髭をたくわえた、身なりの正しい壮年の紳士だった。
 知らぬ人ではなかった。見慣れた顔だった。
 もう、何年も、何十年も、何百年も。
 浅野よりも犀川よりも古くから、この地を生きる、彼は。
「手取せんせい……!!」
 呼び声は、悲鳴のようだった。ひげを生やした口元を笑む形に、手取は目を細める。
「浅野さん、横になんなさい。だやいやろ」
 優しく言うその口調には、いつもの不真面目な様子はない。
 伸ばされた手にすがりつく、不安が涙となって、堰を切ったように浅野の頬を流れた。
 豪雨に見舞われた時のような、心の高ぶりはない。けれど、だからこそ、衰えていく自分が怖ろしかった。
「手取先生、手取先生、わたし、わたし! このままやったら!」
 周りにいる誰にも、どんな市民にも、こんな言葉を、不安を聞かせられなかった。自分は川だ。人よりもずっと寿命が長く、人を生かすための、川そのものなのだから。
 自分が枯れることだけが、怖いわけではない。
 自分が枯れたら。川が、消えたら。
「――人は、魚は、稲は、草は、花は!!」
 これまで長い長い時間をかけて、育んで来た、すべてのものが。
「さとはぁ……!!」
 一体どうなってしまうのか。嘆く浅野の額に、手取の手が伸ばされた。
「どうもない」
 浅野の息が止まる。
 冷たい手だった。
 手取の、皺の刻まれた、冷たい手が、浅野の額をなで、頬をなでる。
 そうして、小さい子供に言い聞かせるように、ほんの少し呆れた調子で、手取はため息をついて、笑った。
「こんなに泣けるなら、浅野さんは、どうもないなぁ」
 手取の両手が、浅野の手首を掴む。
 そうするだけで、流れこんでくるのは、手取の川を流れる水。その、命だった。冷たさの正体を、手取はこんな風に口にした。
「白山がある」
 手取川の、豊かな水源。その雪深き山。白き山の、名を上げて。
 約束をするように、手取は言った。
「この手取がおるとこ、不自由はさせん」
 手首から流れ込む、冷水が、浅野の心臓まで届き、髪の先まで、満ち足りるようだった。
 もちろんこの夏の干ばつにおいては、雀の涙のような水量だったが。
 白山の恵みが、浅野の身体に流れ込み、ようやく浅野は、崩れるように布団の上に倒れた。
 その背をさする、手取は優しくやわらかく笑いながら、このさとの美しいおんな川に語りかける。
「今年も必ず、いい酒をつくって、みんなで飲むまいか。白山の雪解け水と、その水でつくった、米を麹に」
 誰よりも酒を好む彼らしい励ましに、浅野が鼻を鳴らして頷いた。
「……はい……はい……っ」
 その様子に、手取は安堵の息をつくが、次の瞬間、「そうや……」と浅野が震えた声を上げた。
 そしてまた、勢いをつけて身を起こし、必死の形相で、叫ぶ。
「手取先生、わたしのことはじゃまない、じゃまないから! 犀川さん、犀川さんとこ、行ってあげて……!!」
 自分がこれだけ苦しいのだ。
 雄大な彼もまた、決して楽な天災ではないはずだった。一歩も外へ出られない浅野には、見舞いに行くすべもない。
 どうか、彼をとすがる浅野に、手取は今度こそ、呆れたようなため息をついた。
「……君らは、本当に……」
 愛らしい子供を持った親のように。慈愛に満ちて。ゆっくりと、浅野に囁いた。
「先に、犀川くんの所を見舞ってきたがや」
 浅野が驚きに顔を上げる、笑いかけながら、手取は続けた。
「彼もな、ずいぶん消耗しとったが」
 脂汗をにじませ、荒い息をこらえながら。
 絞り出すように、犀川青年は言ったのだという。
「『自分はいいから、浅野さんのところに、行ってやってくれ』と」
 君らはほんとによう似とる、と手取はからかうように笑った。
「う……」
 浅野は子供のように顔を歪めた。自分の情けなさが恥ずかしかった。
 手取はこうして他の川を見舞えるほど、犀川も、浅野のことを思いやってくれるほどなのに、自分はこんなにも取り乱してしまったのかと。
 唇を噛む浅野に、「お大事にな」と手取は立ち上がる。
 長くは外にいられないのだろう。普段は酒ばかりを飲んでいる昼行灯の彼も、今は仕事が忙しいのだ。
 立ち上がりながら、手取は言った。
「犀川くんから、伝言をあずかっとる」
 浅野を見下ろして、口伝する言葉。
「――『元気んなって、来年は、一緒に大豆田(まめだ)の花火を見よう』」
 それは、夏の風物詩である、犀川の河川敷で行われる花火大会だった。
 その言葉に、また、浅野の目に涙が浮かんだ。けれど手取はぱっと扇子を開くと、意地悪く笑いながら、くるりと背を向けて言った。
「ま、川北が一番やけど」
 含み笑いをもらしながら、そう言い消えていく。
 手取川の河川敷で行われる、川北の花火大会は、県下だけではない、北陸最大級のものだ。
「手取せんせには、敵わんわ……」
 呟き、ゆっくりと、浅野は目を閉じる。
 まだ、自分の身のうちに、流れる水の音がしている。
 きっとこの夏は越えられる。浅野は思い、ゆっくりと息をした。









(解説)
1994年の干ばつは、平成六年渇水とも呼ばれる。
石川県で一番多くの水量を誇る手取川は明治以降、積極的に利水事業が実施され、農業用水、電源開発に寄与し、平成六年の渇水においても、大きな障害はなく、農作物への被害もほとんどなかった。
また、「手取川」は北陸を代表する名酒である。