滝の白糸

 三味線の弦が、音を立てて切れた。
「つっ」
 赤くなった指を口に含むと、茶屋の玄関先が騒がしくなる。
「浅野さん……!」
 馴染みの芸妓が駆け込んできたので、浅野は顔を上げた。
「どうしたん?」
 座敷に出るには、まだ陽が高すぎる時間だった。
「お客さんです。一座の方が、たくさん……」
「一座?」
 首をかしげる浅野の部屋に、複数の人間が上がり込んできた。



 棒茶の香ばしい香りが立っている。
「代役? 私が?」
「……はい……」
 客人は東京に拠点を置く芝居小屋の者だった。浅野も聞いたことがある、有名な芝居小屋だ。今夜兼六園にて行われる芝居の公演の、代役を務めて欲しいというのが彼らの申し出だった。
 代表を名乗る男の後ろ、脇に座る女は一際美しかった。彼女が芝居小屋の目玉であり、主役であることは、まとう空気ですぐに知れた。けれど今、親の敵のように畳の目を見つめている。
「一体なにを……。わたしはただの芸妓。役者ではございません」
 聞けば、健康そうなその看板女優の代役であるという。
 困惑しながら当然のように断る浅野に、「しかしながら」と代表は汗を額の汗をぬぐいながら理由を話しはじめた。
「今回の公演は、原作の先生の立ち会いが決まっておりまして……。その先生が、どうしても、うちの役者では駄目だと……」
 ぎりりと背後の役者の視線が強まった。気の強そうな、美しい女が唇を噛む。
「……それで?」
「公演を行うのであれば、東山の浅野を、主役に連れて来い、との、おおせで――……」
「だらんことを」
 首を振りながら、馬鹿馬鹿しい、といった意味の言葉が浅野の口をついて出た。
「お帰り下さい」
「帰れません! 公演には穴が開けれないんです!!」
「だからって……」
 彼らは、浅野が『なにものであるか』も知らないのだ。
 たかだか芸妓の小娘に、頭を下げるほど切迫していることはわかったが、浅野にも出来ることと出来ないことがある。そう答えると、「先生は、出来るとおっしゃっていました」と食い下がってきた。
「あなたなら出来る、いや、あなたしか出来ないと」
 眉を寄せる浅野に、相手は告げた。
「――――演目は、『滝の白糸』。この地で、白糸は、あなたしかいないと」



 舞台を照らすのは薪だった。
 観客は満員御礼。人入りは役者についたものというよりも、その芝居の演目自体についたものだった。戯曲『滝の白糸』の舞台はまさに金沢、そして東山の芸妓の物語である。浅野にとっては、確かに一言一句、正確に覚えることが出来るほどよく知る物語だった。
 割れんばかりの拍手に出て来た白糸は、美しい友禅の着物に、一糸の乱れもない髷。
 やんややんやと喝采に浅く笑う、まさに艶やかな、艶やかな芸妓の姿に、人々は熱狂した。
 芸妓白糸の芸は、水芸である。
 本来であればコップを一杯、扇子とともに踊るだけだが、そこは舞台、袖に仕組まれた細工から、音楽に合わせて水の噴き出す仕掛けだった。
 聞き慣れたうたに合わせて白糸が扇を振るう。
 けれどそこにかすかな違和感を感じ、はっと浅野は顔をこわばらせた。
 水が、出ない。
 ついと視線を流して背後を見れば、細工を踏みつける赤い靴の、つま先が見えた。毒々しいその靴の赤には見覚えがある。
 主役をおろされた芝居小屋の女の足だ。
 ふぅ、とため息をつく。
(だらんことを)
 逆恨みもいいところだ。浅野とて、迷惑を被っているに過ぎないのに。
 けれどその、彼女の必死さを、哀れだとさえ思えた。

 わたしがなにか。知りもせずに。

 かすかな一息、赤い唇から吹きかければ、扇から水が噴き出すだろう。
 右にさせば右に。
 左にさせば左に。
 息を吹きかけるその仕草が、愛らしく、また同時に妖艶でもあった。
 サクラではない拍手が鳴り響き、人々は沸いた。頃合いを見計らい、扇を落とした白糸は、羽織を脱ぎ、客席へと降りて、人をかき分ける。
「“御免あそばせ。御免あそばせ!”」
 それは台詞であり、目のはしに見えたような気がした、惚れた男を探す女の演技だった。けれど客席の一番奥に立っていた人に、白糸ではなく浅野が足を止めた。
「“おや、違う”」
 台詞だけを告げ、慌てた様子で、袖へと消える。



 戯曲の結末は悲恋である。愛に殉じて自ら命を絶つ白糸の狂気に、人々は惜しみない拍手を送った。
 大役を終えて、達成感よりも安堵のため息をつきながら袖に降りた浅野は、そこに立つ人に足を止めた。
「くだらん劇だった」
「……誰のつくったお話ですか?」
 開口一番そんな風に斬り捨てた小さな老人を、苦笑を浮かべて、浅野は呼んだ。
「鏡花先生」
 ふん、と眼鏡をかけた渋面が鼻を鳴らす。
「私が書いたのは文学。お前さんのは見せ物だ」
 浅野の既知である彼はこの戯曲の、原作となった小説を書いた作家だった。そして、主演の女をおろし、浅野でなければ上演はさせないとだだをこねた当人でもあった。
「そう言われるなら……」
 止めさせればよかったのに、と思わずなじる言葉を言う浅野に、鏡花は背を向けて。
「しかし、白糸は悪くない」
 低い声で、小さく、はっきりと言った。
「白糸は、悪くない。……お前さんは、さすが、怪(あやかし)の女だ」
 浅野は、笑う。白糸のように、浅く、艶やかに。
 彼は、浅野が『なにものであるか』を、知っている老人だった。
「……お褒めの言葉と、受け取っておきます」
 でも、これっきりにして下さいね、と、振り返ることもない気むずかしい背中に語りかけた。



 絞り染めの友禅をさばいて、舞台の客席へ。観客の去ったそこに、たたずんでいる人がいる。
「犀川さん!」
 待っていたのだろう。浅野が来るかどうかもわからなかっただろうに。彼は、待つことが好きな人間だから。
「いやぁ」
 走り寄る浅野に、「“待ってましたよ大明神”」と犀川は手を叩いた。
「“あでやか、あでやか”」
 それは、滝の白糸の原作にもある台詞であったから、浅野は白く塗られた化粧の下の頬を染めた。
「からかわないでください! どうして、ここに……」
 客席に降りた『白糸』が、犀川の姿を見つけてどれほど驚いたことか。うっかり、台詞と演技を忘れそうになってしまったほどだ。
 けれど犀川は快活に笑う。
「せっかくじゃあないか。鏡花先生の白糸を、浅野さんが演るんだ。辰巳に聞いて駆けつけたよ。むしろ、どうして呼んでもらえなかったのか聞きたいくらいだ」
「だって……」
 急なことだし、だって、と指先をいじりながら口の中で言い訳をこねる浅野に、犀川はふっと笑い。
「綺麗でしたよ」
 自身の着物の袷を直しながら、目を伏せて、小さな声で付け加えた。
「綺麗でした。――僕が、攫って逃げようかと思いました」
「え?」
 不意を突かれて、浅野が顔を上げる。犀川の笑みが、すぐそばにあった。
「遅い時間です。着替えてらっしゃい。送りましょう」
 待っていますから。そう言われると、彼の、いつもの『待ち癖』が出てしまうような気がして、浅野は慌てて、控えの部屋へと走りだした。
 頬が熱く、熱を持っていることを、走ったせいにしてしまいたい、そう思いながら。
 残された犀川は、報せを聞いてひどく急いで着いた手前、時間を潰す本も持たなかったので、頭の裏、何度も読んだ、小説の一節をたどって待つことにした。



    「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということが
    あるものかね」
    「抱いた? 私が?」
    「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
    「どこで?」
    「いい所(とこ)で!」
     袖を掩(おお)いて白糸は嫣然(えんぜん)一笑せり。

                                ――泉鏡花『義血侠血』より






(解説)
泉鏡花(1973−1939)は金沢を代表する三文豪のひとり。後世に多くの作品を残したが、
戯曲『滝の白糸』の原作である『義血侠血』は初期の代表作のひとつ。
しかし当初、戯曲化は鏡花に無断で脚色されたものだった。