手取先生

 金沢に茶屋街は三つある。主計町。にし、そしてひがしの茶屋街。
 その中でも、ひがし茶屋街は二百年の昔から、今でも茶屋を経営している。
 決して大きな茶屋街ではない。一見を招くようなこともなく、無体があればすぐに知れ渡る。
 その日は、飲み過ぎた上に芸妓に絡む客があるとの報せ。
 普段は口出しをしない浅野が、血相を変えて座敷へと飛び込んだ。
「手取先生!」
「おお、太夫のおでましやぞ」
 呵々と笑い声。黒い着物に粋な羽織で、小さな黒髭も整い、小さな丸めがねも相まって、姿だけなら老紳士。
「飲んだくれは、いい加減にしてくださいっ」
 しかし浅野が出会った頃から、とんでもない酒豪だった。
 浅野や犀川とは、同じうまれの生き物のはずだが、浅野は時折、この人は川ではなく酒の化身なのではないかと思う。
 浅野に座敷を追い出されてもそしらぬ顔で。
「次はにし茶屋でもいこまいか。犀川くんでも誘おうか」
 そんなことを言うから、浅野は
「次回は白湯しか出しませんから」
 と冷たく返してやった。
「おお、おとろしおとろし」と手取は笑って夜の街に消えていく。
「なんなん、もう」
 街灯の甘い灯りに消える、その背を浅野は見送った。





辰巳

 謡に急遽の代役が必要となり、犀川は久し振りに能舞台に立つ機会を得た。
 おもてだって名前が出ることはないが、宝生流の古典であればどんな謡もこなす犀川は、関係者に重宝されている。
「おつかれさまです、素晴らしかった!」
 控え室までやってきたなじみの弟分に、犀川は笑って返した。
「眠かったろう、辰巳」
「まさか!」
 犀川の謡がどれほど素晴らしかったか、言葉を尽くして説明をする。
 辰巳は初めて出会った頃から、犀川に心酔している。
 ひとしきり語ると少し目をふせて、
「……俺も学んで見ようかな」
 と呟くので。
「謡を? 先生なら紹介しようか」
「いえ、出来れば」と言う辰巳の頬は紅潮している。
「シテ方を……。犀川さんの謡で舞えたら、と思っています」
 犀川は目をふせて、笑う。
「先は長そうやな」
 でも、と付け加えた。
「僕らの時間は長い。やわやわと、やるまいか」
 はい、と辰巳が、嬉しそうに頷いた。