竜の腹の底で夢を見た。










 つながれものでありまじりものである少女、ジュナの夢のありかがこの場所だったのは、生きていく『標(しるべ)』がここにあったということだろう。
 娼窟で足の腱を切られた時でもなく、阿ギトに助け出された時でもなく。
 あの街道で、商人の荷を襲った──燃えるような瞳のエィハと出会った時のこと。

「うたをうたえないつながれものなど、あたシの敵じゃあないわねぃ」

 そう、ジュナは告げていた。護衛を気取る生意気なつながれものを滅ぼすつもりだった。そうでなくとも、退け、格の違いを見せつけるつもりだった。食うに困って人に下った畜生など同胞でもなんでもない。
 けれど、圧倒的な力の違いがあってしても、刹那がごときその命を投げ出し、一矢報わんという苛烈な瞳に、心を奪われていた。
 それは、つながれものでありまじりものでもあるという希少さとはまた別だったと感じている。
 そう、かつて自分は言ったのだ、とジュナは思う。
 ここで。あの子が欲しいと。自分と来いと。

 そして今再び、答えを示せ、と夢の中で竜は告げた。

 気持ちは確かであったのに、それでも心が揺れたのは、あり得ない可能性を思ったからだ。
 この時もしも。自分がエィハに手を伸ばさなければ。欲しがらなければ。彼女は竜に殺されることもなく。まどろみのまま、その短い天命を静かに終えることが出来たのかもしれないと。
 そしてそれこそが、彼女の幸福だったのかもしれないと。
 けれど──選べなかった。それはもう、選べなかったのだ。たとえどれほどの苦しみがこの後自分とエィハを襲ったとしても。
 この目を見たら、言わずにはおれなかった。

「あたシ、この子が欲しいわ。たとえ其れが、この子をどれほど不幸にするとしても」

 たとえ何度出会っても。何度まじわったとしても。欲しいものを、欲しいと言うだろう。
 お前は答えを示した、と竜は告げた。
 そして残酷なまでの道を示したのだった。お前が竜を殺せば、その短命を克服出来る。それだけではなく、切られた足の腱も再生出来るし、強烈な薬の依存からも脱却でき、子を成すことまで叶うと教えられた。
 痛みと死の恐怖から逃避するために薬を覚えた。毒にひたしたこの身体に、今ひとたびの希望が与えられるだなんて。
 けれど、それを聞いてもなお、思い返したのはあの瞳のことだった。あの時戦いの世界に巻き込んだ、未来を求めよと堕として追い詰めた。忘れかけていたはずの死の恐怖を喚起した。それでもなお、純粋さと愛らしさを失わなかった、瞳のこと。

「よかった……」

 目を細めて、ジュナは言う。自分が間違えなかったのならば、彼女もまた選択を間違えることはないだろう。そして自分にこの道が示されるのならば、彼女にもまた、近しい道が与えられるだろうということ。
 さすれば。

「エィハにはまだ、未来があるって、いうことねぃ……?」

 それならば、この果ての城までやってきた、甲斐もまたあるということだった。

 

 

青い蝶の見る夢は

 

 

 すべての絶望と運命が絡み合い、この島の果てはまるで混沌のようだった。
 何度もここが最後だと思い、けれど覆されてきた。けれどこの、『果ての果て』がきっと終焉なのだろう。これよりも先があったとしても……きっと自分達にはたどり着けまい、とジュナは感じていた。
 エィハとはすでに別れを終えた。最後に彼女は泣いていた。誰かを選び、誰かを捨てる。その残酷さに涙を落とした。けれど落とした涙の美しさだけが、ジュナにとっては生涯の宝だった。
 そしてこの場所が死に場所だと感じているのは、ジュナだけではないようだった。
「お前は知っていると思うが、ジュナ」
 黒い瞳でひたと未来を見据え、彼女達をここまで導いた阿ギトが言う。決して感情的ではない、事実だけを告げる口調だった。
「俺は、このいくさに勝つつもりだ。かろうじて上手く負け続けてきた俺が、最後の最後に。手に入れる勝利だ」
 ジュナは目を伏せ、囁くように答える。
「ええ、阿ギト、あなたはずっと、そうだった……」
 彼の、勝利を。ジュナもまた確信していたのだ。それ以外に、信じるものがなかっただけだとしても。
 凛とした声で、阿ギトは言う。
「忌ブキが竜の力を手に入れ王となった時、あいつの手に入れた力は還り人さえ自在に作り出すかもしれない」
 その言葉に、ほんの少しだけ、ジュナは眉をあげて驚嘆した。この島について。竜について。力について。阿ギトの知識は深い。
 その阿ギトが言うのだから、法螺や憶測ではないのだろう。
 けれど。その上で、彼は言うのだ。
「だが、ユーディナには再会はないと告げてある。……俺は、還らない」
 彼が口にしたのは、後方に置いてきた、彼と深くつながった女の名前だった。彼もまた──別れは、済ませてきたのだ。
「俺は、俺達は、革命のために多くの人を殺しすぎた」
 ただ、淡々と。どこまでも事実だけを述べる口ぶりで彼は告げた。
「罪には贖罪が必要だ」
 それは覚悟だった。すべてを背負い──彼は、最後まで、悪党になろうとしている。
 ふっと、ジュナは笑った。
「……出会ってから。牢に入ったり、罪をかぶったり、阿ギトはそんなことをしてばかりねぃ……」
 ジュナの言葉に、阿ギトもまた、笑う。
「情けないところばかり見せたな」
 その笑顔は、まるで少年のようだった。ジュナは目を細め、首を振る。
「いいえ」
 伸ばしかけた手は、けれど、宙をゆるく握っただけだった。ただ、目を閉じて、ジュナは言った。
「あんたよりいい男なんて、あたシ、知らないわよぅ」
 かつてあのかび臭い娼窟で、ジュナは目も口もふさがれ奴隷や家畜以下に成り下がっていた。逃げぬように両足の腱を切られて。
 心中に繰り返すうただけが、彼女のよりどころだった。
 その中で、現れた阿ギトは確かに鮮烈な光であったのだ。乱暴で、荒削りで、ほの暗い狂気でもあったが。
『俺と来い! 生きた証を世界に刻もうじゃないか!』
 確かに、未来のごとき光だったのだ。
 ジュナは革命軍でもまた、多くの兵士に抱かれてきた。無理矢理ではなく、それは彼女自身の愛情の発露であり、生きる爪痕でもあった。その中で、阿ギトも肉体的には奔放でありながら、二人、交わることはついぞなかった。それでも、彼は言う。

「お前のそれよりも美しい歌を、俺は知らない」

 歌ってくれるか、と阿ギトは言った。
 この島のため。この国のため。王のため、未来のため、そして──俺のために。最後まで。
 ジュナは答えなかった。答えるまでもなかった。これから奏でられるうただけが、本当のことだった。
「ジュナ。お前は還れよ」
 旋律に乗せるように、阿ギトが言う。
「愛したやつの傍にいてやれ。それくらいの報いが……この革命家達にあってもいいだろう」
 うたをうたうために呼吸を整えながら、「そうねぃ」とジュナが言う。
 自分は還るのかもしれない。それはたったひとときのことかもしれない。けれどたったひとときでも構わない。いや、充分過ぎるほどだろう。

「その時は、あたシ、あの子の、墓標になりたいわ……」

 死が、ひたひたと、足音をたてて近づいてくる。
 けれどそれは、ジュナにとってはすでに馴染みの深いものであった。なんどもくるまり眠った、絹の毛布のようではないか。
 そうして竜の腹の底、また見る夢があの夢ならば。
 それ以上の幸福は、きっとないことだろう。
 そして、うたが、流れ出す。
 最後の舞台に流れはじめる、二色のうたごえ。
 それはまるで、遠い大地で再会を誓う哀歌のようだった。

end