絵画の心

 その国の近隣では最近、とある絵画の噂が絶えない。
 絵画といっても普通の芸術品ではない。強い魔力を帯び、所有した者に幾千の富を与え、幾万の魔を退けるという。真偽のほどは定かではないが、少なくとも崇高なる王の間にはその絵が飾られているらしい。
「そう、まさにこの世の宝。世界に同じものは二点とない代物でございます」
 と画商が声を張り上げる。貴族の館、紅茶の香る昼下がり。
 広げられた絵には、美しい森が描かれている。そして察しのいい者であれば感じることが出来るだろう。肌をぴりりと粟立たせる、魔法の気配を。
「知っての通り、この絵画にはサインがございません。そんなものは必要ないのです。唯一無二であるがゆえに、その存在こそが確かな証拠となるのでございます。もちろん、下賤の者にはわかりようもございません。けれど、旦那様ほどの人となれば……!」
 画商は言葉巧みに主人の自尊心をくすぐり、顔色を窺う。天鵞絨のソファに座るのは、その館の主人で、難しい顔で腕を組んでいる。隣に控えた夫人はすでに、先の訪問で絵画に心を奪われていた。今日は体調を崩しているとのことで、薄い外套をすっぽりとかぶっているが、その失調さえこの絵画はたちどころに癒やすだろうと画商は言った。
「出所は申せませんが、末代までの繁栄と、幸福をお約束いたしましょう。引く手あまたのこの一品、今回だけは特別に……」
「奇跡に値段をつけるというのね、貴方」
 そこで口を開いたのは顔も見せられないほど失調しているはずの夫人だった。呼気の隙間を縫うような、鋭い問いかけだ。
 はて、この夫人はこれほどに、若々しく瑞々しい声をしていただろうか──?
 いぶかしむ間も与えられず、水が落ちるように言葉が降る。
「是非聞かせて頂きたいわ。この絵を幾らでお売りになるのか。これまで幾らで売って来たのか。金貨を何枚? 足りなければ土地を館を、婚礼の指輪さえ手放させ、それでも未来は黄金のようになると? 奇跡の絵画を奇跡たらしめるのは、その絵画を描いた人の、幸福であれという願いのみのはず。そしてそれに支払える対価は、心を伴わなければ何万の金貨であっても鉄屑と同じ。いいえ、それ以下よ」
 画商の顔がみるみる青くなり、汗が浮かんだ。その声。その言葉。直に耳にしたことはないとしても、確かな力となって画商を絡め取る。夫人は容赦をすることはなかった。顔を隠していた外套を取り去り。黒い髪を背に流して。
 燃えるような赤い瞳が画商を射貫く。
「それでもまだ、その絵が真昼姫のものだと言うなら。わたくしの夫であるディア殿下に触れて頂きましょう。その絵のまとう力が貴き夜の王以外の魔術であれば、四肢に触れた瞬間、はじけとんでもおかしくはなくてよ」
「え、エルザ妃殿下……!」
 画商が椅子から崩れるように膝をつく。嫌な予感は杞憂に終わることはなかった。そこに座していたのはかの国レッドアークの王子に嫁ぎし異国の姫君だった。
 不幸な生まれを持ちながら、国を背負って花嫁となった少女は、おそろしいほどに弁が立つ。
 駆け込んできた城の者に、画商は縄にかけられる。人を欺き利益を得ていた男は言葉を失い、抵抗もしなかった。
 エルザの隣に座っていた貴族の主人も畏れ多さに膝をつく。夫人が怪しい画商に心を奪われ、説得も届かず、何か知恵はないかと王宮へ相談してみれば、商談に同席すると現れたのは王子の妻その人であった。
 恐縮する主人にエルザはさばさばと声をかけ、礼も紅茶さえも辞して、控えていた馬車で風のごとく去って行く。
 彼女には早急な務めがあった。
 自分が行くといってきかない夫に、事の顛末を話さねばならなかったのだ。

「じゃあ、結局は贋作だったわけだ」
 妻を出迎えた王子は、政務を中断し、遅いお茶の時間にした。一仕事終えて帰ってきた愛妻に、焼きたての菓子を出すことも忘れない。
「当たり前でしょ。そうそうあるもんじゃないわよ」
 とエルザはまるではすっぱな少女のように答えた。最近では猫をかぶるのも堂に入ったものだが、こちらが地だ。もちろん王子の方は、その言い方を責めることなどしようもない。豪奢な椅子に座る身を乗り出して、エルザに尋ねる。
「ちなみに、一番の決め手はどこだったんだい? 一応君にもわかるほど、魔法の気配があったんだろう? もしかしたらミィが戯れに……焼き果実の礼にでも、渡したものだとは思わなかった?」
 エルザの判断をもちろん疑うわけではなかったが、出来るだけ詳細に話を聞きたいようだった。聞かれたエルザはため息をつき、肩をすくめて短い言葉で答えた。
「上手かったのよ」
 そして首を曲げ、斜め後ろを見上げるようにしてもう一度言った。
「上手かったの。それ以上の、贋作の理由なんてある?」
 彼女の視線の先にあるのは、まごうことなき、『本物』だった。それ自体が魔法とも奇跡とも言われる、おおよそ人の世界にはない材によって描かれる特別な絵画だ。
 その絵は二人の結婚祝いに、直接描き手から渡されたものだ。
『ディアと、エルザよ』
 彼女が最愛の王の傍ら、彼の真似をするようにして描いたその絵は……。
 目鼻がついていることがかろうじてわかる程度の、幼子のような絵であった。
 エルザの言葉に、クローディアスは吹き出し、素知らぬ顔で紅茶を傾け「間違いないね」と頷いた。
 果たしてその絵に、どのような効力はあるのか。
 それは誰にもわからないが、幸せであれと願う心だけが、今はその絵を、何よりも輝かせている。

2013/12/09