聖騎士夫婦の特別な日

 戦場に怒りは禁物である。男が怒ると辺りの熱は上がるものだ。熱くなるのは結構だが、頭にのぼる熱は冷静な判断を鈍らせかねない。その点、女性の怒りは熱が下がるのだなと、アン・デュークは実感していた。出来れば知らぬままでいたかったなぁ、などと悠長なことを思ってみる。
 小さな河原で投げ石を一つ。
「虚しい……」
 肩を落として呟いた。
 うららかな昼下がりである。冬支度をはじめた街の人々も、この陽気では編み始めた毛糸をほどきかねない。
 アン・デュークは騎士たる務めを終えて先ほど国に戻ってきたばかりである。こんな所で顔見知りにでも声を掛けられたらいやだなあと思っていたら、背後から彼を呼ぶ声があった。
「アーンディー!」
 なにをしているの? と可愛らしい声がした。
 彼の愛娘がそこにいた。相変わらずはねた髪は、今は彼の妻の手によって梳かれており、彼女の背丈と同じように心なしか伸びている気がした。
 アン・デュークとは似ていない。そして彼の妻であるオリエッタとも似ていない。血の繋がりもなければともに暮らしているわけでもない。けれどそれが愛娘ではない、という理由にはならない。
「ねぇ、なにをしているの?」
 思えば、こうして年に数度しか会えない愛娘の滞在時期に、あまりにもったいのないことをしている、という自覚はあったが。
「ちょっと世を儚んでいるんだ……」
 格好をつけて言ってみた。彼の仕事は聖騎士だから、格好つけるのがその主な仕事のようなものだ。
「わかんないよ!」
 彼の愛娘は素直で、ほんのちょっぴり情緒がない。もちろんこの辺りはあばたもえくぼといったところ。
「うーん、ちょっとね、がっかり、をしているんだよ」
「がっかり、どうして?」
「うーん、奥方をねぇ、怒らせてしまってねぇ」
「オリエッタが、怒る?」
「うーん」
 ともう一度、アン・デュークはうなると、秋の高い高い空を見上げた。
「そもそも女性というものはさ、どうしてああも、記念日にうるさいのかな」
「きねんび?」
「特別な日のことさ」
「うるさい?」
「ああそうさ!」
 と半ばやけっぱちになってアン・デュークは肩をすくめた。
「しかも、しかもだよ。記念日の前には少しだってそぶりを見せないし、予告もヒントも与えちゃくれないのに、その日が過ぎたら必ず言うんだ! 『あなた、昨日はなんの日だったか、忘れてしまったのね』っていう風にさ!」
「えっと」
 愛娘はそして小首を傾げて言った。
「昨日は、アンディ、お仕事でいなかった」
「そうさ! 僕だっていつも家でぐうたらしていたいけれど、仕方のないしがらみってやっぱりどうしたって出てくるじゃないか。僕だって好きで――……」
 そこまで言ってアン・デュークは言葉を止めた。
 格好悪いなぁと思わずにはいられなかった。旅程から、どんなに急いでも帰国が今朝になってしまうことはわかっていたのだ。『昨日』について、旅に出てから気づいたアン・デュークが、やっぱりどうしたって悪い。
「昨日、アンディいなかったから、オリエッタが、怒った?」
「怒っていたろう?」
 うーん、と、ここしばらくアンディの家にやっかいになっていた愛娘は、アンディを真似るようにうなって、あっけらかんと彼に告げた。
「かなしい顔、していたよ」
 アン・デュークは、はたと息を止め。
「あー……」
 大きな手のひらで自分の顔を覆って、子供のように川辺にしゃがみこんだ。
 八つ当たりもへったくれもない。徹頭徹尾駄目じゃあないか。
 これは、もう、限りなく駄目だ。
 しゃがみこんだアン・デュークの隣、同じように膝をかかえて、
「ね、帰ろう?」
 と愛娘は小さく尋ねた。
 打ちひしがれたアン・デュークは、「男には帰れない時もあるのさ……」といよいよ世を儚むようにうそぶいたが、隣の少女はばねのように立ち上がって言った。
「ミミズクは、帰れない時なんて、ないよ!!」
 驚いたようにアン・デュークは顔をあげて、そしてまぶしげに少女を見た。
「……あぁ……」
 小さく微笑み、うつむいたまま立ち上がる。
「全くだ」
 とその手をミミズクの頭上に置いて、ため息をついた。
 帰る場所と帰りたい自分がいる。
 だとしたら、帰れない時なんてどこにもない。
 帰ろう、とアン・デュークが呟こうとした時だった。
「あー!!」
 口をへの字に曲げていたミミズクが、突然声をあげた。
「大変! ミミズク忘れてた!」
「? なにをだい?」
「わたし、アンディを呼びに来たの!」
「あぁ、うん……」
 それはそうだろう、とアン・デュークは曖昧な返事をすると、ミミズクは目をきらきらさせてアン・デュークに詰め寄った。
「すごいの、すごいのが来たんだよ!」
「え?」
「ミミズクよりも大きいんだよ、お車! いーーっぱい!」
 ぐるぐるぐる、と三回自分の両腕をまわし、ミミズクは言った。
「こんなたくさんのお花!!」
「……着いたの?」
「そう! 持ってきてくれた人ね、とっても謝ってたよ。ごめんなさいごめんなさいー!って。オリエッタ、いいですよって言うのに、ずっと謝っているの。しょうがないよねぇ。お車途中で壊れちゃったら遅れてもおじさん悪くないよ!」
「……そっか、着いたか」
 アン・デュークが、ようやく憑きものが落ちたように肩を落とす。
「よかった」
「アンディも早く見るといいよ、すっごくすっごく綺麗だから!」
 手を引くミミズクに、アン・デュークは笑いかける。
「ああ、それは是非とも見なくちゃいけないな。ところでミミズク」
「はぁい!」
「それで、僕の奥方の機嫌はなおったかな?」
 問いかけに、くるりと三白眼の瞳をまわして、ミミズクはこう言った。
「オリエッタの笑顔、たくさんのお花よりももっと綺麗だった!」
 その答えに、アン・デュークは得意げに微笑んで。
「あたりまえさ」
 と呟いたのだった。

2007/11/22