君は知っていたかい?
このどうしようもないほどの
青を
「待ってくれよ!」
そう言われて待つものがいたら見てみたいものだ、とハルディは思った。
「ハルディ!」
「そんなに大きい声を出さないでくれないか。とっくに聞こえてるんだから」
呟きは届いたようだ。相手はすんなり黙った。この自分の声量が聞き取れておいて、どうしてそれにあった己の調整ができないのかとハルディには不思議でたまらない。
教室のドアを開ける音が妙に虚しく響いた。
「……悪いことしたのなら謝るよ、ごめん」
「何が?」
鞄に本を詰めながら、ハルディは即座に返した。
「おれは別にウェーダーに謝ってもらう筋合いなんかないし」
「だって怒ってるじゃないか!」
「そう思うんなら話しかけるなよ!」
初めてハルディは声を荒立ててウェーダーを見た。
案の条ウェーダーの蒼玉の目は泣きださんばかりに潤んでいて、これだから嫌なのだとハルディは思う。
ウェーダーは友達だ。トモダチ。なんて希薄な言葉だろう。
ハルディはこの、自分より劣っているところの方が多い友達と、時に肩を組み、時に慰め合い、笑い合い、そして時にこうして怒鳴りあった。
「約束してただろう?」
今度は「何が」と聞き返したりはしなかった。それより先に答えが出されたからだ。
「猫目祭りがもうすぐ始まる」
「一人で行けばいいじゃないか。祭りには必ず連れがいるなんて、そんな法律があるってのか?」
「言い出したのはハルディだよ」
「気が変わったんだ」
そう言い返してハルディは栗色の髪を揺らした。喉が渇いたようだった。祭りで果実か果汁を買えば渇きはおさまるかな、と思う。
けれどその隣にウェーダーがいる、という状況だけは絶対に勘弁だった。
ウェーダーと顔を合わせるのが嫌で、嫌で、ハルディはつま先で方向転換をして窓へ向かった。
開くと、緑のにおいを含んだ風が頬をなでた。
下を見るとその地面の近くに辟易した。二階じゃなくて、教室は四階にあればいいのにと思う。
見限るように茶色の地面から目を離し、ハルディは強すぎる太陽光に気をつけながら頭上を仰ぎ見た。
青い空が遠く遠くに。
ハルディは手を伸ばした。
「あぶない!」
空が飛べるような気がしたんだ。
ずいぶん後になって、ハルディはそう言った。
歓声が上がった。
「すごいや!」
ハルディは叫んで、自分がつかまっている相棒を、首を回して仰ぎ見た。
「ねぇきみ、聞いてくれ、僕は知らなかったんだ!」
「何をだい?」
ハルディの腕をつかんで空を飛ぶ、大きな鳥は静かに尋ねた。
「それはとても簡単なこと! そしてすごく浅ましいことなのさ! なんと僕は、今まで空を飛んだことがなかった!」
興奮しながらハルディは続けた。
「こんなに素晴らしいことなのに!」
真っ青なヴェールが彼を包み込む。風に乗るのではなく、それに抱かれる。自分が望んでいたものが、ここにこそあるのだと彼は確信した。
太陽の光が水晶の屑のように瞼の裏に飛び込んでくる。それはいつか見た夢の情景。
間違えようもない、自分達はここから来たのだ!
「すばらしいよ!」
ハルディはもう一度言った。
つま先を見下ろすとずいぶん遠くに地面が見えた。そこは紛れもなく異国だった。
緑は少なく、巨大な、惑星そのものような岩が横たわる、それはまるで生命の誕生を思わせるように荘厳な眺めであった。
思わずハルディは口笛を大きく鳴らした。遮るものがなければ、そのたった一音の音楽はどこまでも空を裂いていくのだとハルディは分かった。
「ねぇ今の音は届いただろうか」
「どこに?」
ハルディは自由な左手を高く高く掲げていった。
「あの太陽に!」
「もちろんさ」
あっけないほどすんなりと、その言葉は返された。
「君の至上の音楽は、砂の一粒一粒が体中にしみこませ、青いカーテンの隙間をぬってこことは違う高次元まで運ばれる。それが歌うということだよ、ハルディ・マロニエ」
突然名を呼ばれてハルディはその琥珀の瞳を落とさんばかりに見開いた。
「なぜ名前を知ってるの? なんだかきみは何もかも知っているようだけれど、僕はきみも、ここについても、欠片も知らない」
ハルディの言葉に、鳥はその赤茶けた翼の角度を変えて、滑るように高度をおとした。
一際大きな一枚岩の上に着地する。降りたといってもそこは高く、空と地面の境目に立った気分だった。
鳥は突きだした突起の上に止まり、ハルディと視線を合わせた。
「まず一つ、教えてくれ」
ハルディは人差し指をたてて、一番心配していたことを尋ねようとした。
唇が乾いていたので人一なめして、口を開く。
「君はウェーダーかい?」
根拠はなかった。ただ、それをいったら自分がここにいることさえ根拠もありはしないのだから、もしかしたらそんなこともあるかもしれない、と思ったのだった。
そして同時にそうでなければいいとも思ったのだった。
大きな鳥は緩慢とした動作で瞬きをして、その問いに答えた。
「私は、違う。ウェーダー・シンプソンとはね」
それを聞いてハルディは安心したように笑った。
「ならいいや。別にここがどこでも、何でも。何だってかまわない。きみが誰であろうとね!」
けれど、とハルディは続ける。
「これは純粋な好奇心だよ。きみみたいな鳥は初めて見た。なんて種類なんだい?」
「種類、は…、何だったか…」
その言い方は呆けているのでも忘れているのでもなく、記憶をたどっているもののそれだった。
「そう、あれだ。幸せを運んでくる青い鳥。あれにしよう」
鳥が大まじめであったことは一目瞭然だったけれど、思わずハルディはその言葉に異義を申し立てた。
「青い鳥! 冗談! きみはどう見ても、赤茶けた鳥だ」
「そうだろうか」
ハルディは笑ったが、鳥は小首を傾げて聞き返す。
「そうだよ!」
「本当に?」
なおも言い募ろうとしたハルディだったが、突然言葉を切った。
琥珀の瞳が大きく開かれる。
見えたのはヴィジョン。
広がる景色。
それはどこまでも続く。
海。
波の音も聞こえない、それは地上に鎮座した。
水平線まで広がる青。
写真のように引き延ばされた一瞬が消滅したとき、残ったのは今まであった、変わらない景色。鳥の姿。
ハルディは笑う。
「わかった。O.K。確かに君は見たまま青い! でもそれじゃあ呼びにくいよ。名前はなんて言うんだい?」
するとまた鳥は考え込むように沈黙した。その小さなくちばしから今度はどんな言葉がでるのか、ハルディは夜店の手品を待つような気持ちで待った。
「りんご、と」
「は?」
「だから、名前は、りんご、と」
「それは、本気?」
「いけないだろうか」
別に、いけないとはハルディは思わなかった。他のどんな果物に形容されるより、りんごという名詞は彼にぴったりのようであった。ただ。
「青い鳥で、りんご」
そのアンバランスさを、彼は笑った。ずいぶん笑った。ここまで笑ったのはどれくらいぶりだろうかと思うほど笑ったとき。
彼の体はまたふわりと浮いた。
「ねぇりんご、怒った?」
「何がだい」
「君の名前を笑ったからさ」
ものも言わずに空へ滑り出したりんごに、ハルディは不安になって尋ねた。
「別にかまわない。飛ぶのが唐突だったというのなら謝ろう。良い風が来たんだ」
りんごは心の底からそう言っているようだった。きっと僕だったら怒るだろうなと、ハルディは思った。
「君には理由がいるようだ。ハルディ・マロニエ」
「え?」
最初はその言葉の意味が理解できなかった。
「君は感情には直結した理由が必要だと感じている」
「ああ……うん」
「ならば」
そのとき確かに、ハルディは砂の巻き上がる音も、風を切る音さえ拒否し、りんごの言葉だけを耳に入れたのだ。
「ならばなぜ、君は怒っていたのだい?」
「え?」
何を問われたのだろう。ハルディにはその真意がつかめなかった。知っているはずだろうに。
「僕、怒ってた?」
「さぁ。もしかしたら怒ってなどいなかったのかもしれない」
「だって今きみは」
「それでも君が怒っていると思った人間はいたんじゃないかい?」
りんごはなおも不可思議な問いを発する。
「そこにあったのが怒りじゃなかったのなら、一体それは何だったんだろうね」
ハルディは口を結んだまま答えない。いつの間にか周囲の雑音は彼の耳にかえっていた。
青い空を切る音。
その音に乗せるかのように小さく小さくハルディは呟いた。
「さぁ……。わからない」
「どこへ行くのさ、りんご」
いつまでも風に乗り続けるりんごに、目的地はあるのかとハルディは尋ねる。その一方で地に足をつけることにどこかおびえながら。
空を飛ぶこと以上に素晴らしく彼の心をかき立てる事柄は、ハルディには思い当たらなかった。
「どこへつくのか、考えればいいさ」
りんごは素っ気なく答える。
「ヒントはないの?」
「そうだね……君がこれまでで、一番美しいと思ったもののところだ」
ハルディはりんごの謎かけに首をひねった。自分は今まで、一体何を美しいと感じて生きてきたのだろう。
それは山のようにあったはずなのに、いざとなるとお菓子の銀紙を一枚かぶせたようにわからなくなる。それはとても素晴らしかったはずなのに。
本当は、忘れられるほどちっぽけな感動ではなかったはずなのに。
「ああ、なんで忘れているんだろう」
「忘れていてもいいのさ」
りんごはハルディのもどかしさを見透かしたように言う。
「チョコレートもおいしさを忘れていられたら、何度でも感動を味わえるのだからね」
そこはそびえ立つ崖の途中にあいた、天井の低い洞穴。
肩にりんごを乗せたまま、ハルディは手探りでその中を進んでいった。
わずかに漏れている光が、後方からではなく前方からさしていると気がついたのは、ずいぶん奥に入って行ってからだった。
洞穴ははたしてどこにもつながっていなかった。
袋小路の行き止まりで、けれど天に開いていた。頭上を見上げれば、まるでコンパスで区切ったような空が見えた。
それはどこか、瓶詰めされた星の砂を思い出させる光景だった。
「さぁ、ハルディ」
りんごは彼にだけ聞こえるほどの小声で囁く。
「見てごらん」
りんごの赤茶けた羽は行き止まりの壁を指し、首を傾げてハルディは歩み寄った。
何の変哲もない壁だ。そう思った瞬間、まるで目に刺さるように飛び込んできた光があった。
「え……? これは、なに?」
のぞき込む。土の中、眠るように埋め込まれた光の元素を。金緑の、飴細工のようなその輝きを。
「知らないはずがないだろう」
りんごは言う。ああそうだ知っている。ハルディは思う。
「これは、猫目石……だね」
不安げに、けれど確信を込めて。そう、一年に一度開かれる、猫目祭りで毎年遠くから眺めていたのだ。綺麗な綺麗なこの石を。
手の届かなかったものがここにある。誰のものにもならないけれど。
欲しいと思うのは傲慢だろうか。けれど見ていたかった。去年も一昨年もそうだったのだ。今年だってきっとそれは変わらない。祭りの中で、一年で一番騒がしくも静寂のときを。
浮かんだ気持ちに嘘はないはずだから。
口に出したのがどちらが先だったのか、不思議なことにハルディには認識できなかった。ただ目を閉じて。
「かえろうか」
「かえろう」
目を開けるとハルディは草むらの上に立っていた。柔らかな地面だと思った。岩ではなく、砂と、芝生と。知っている感覚だった。
りんごはハルディの肩にいて、ハルディは窓ガラスの外側にいた。
ボールよけの格子をつかんで、ハルディは見慣れすぎた建物の中の様子をうかがう。住み慣れた、彼の建物の中を。
「ああ……」
驚愕とも絶望ともつかない声を上げ、ハルディは顔を背けた。
「何が見たくないんだい? ベッドに眠る君自身の姿か」
「そんなのはどうでもいい」
本当にどうでもよかった。ただ。
「ウェーダーがいる」
ベッドに眠る抜け殻のハルディを心配そうにのぞき込むその姿。なぜかその全てに拒否反応が現れる。
「嫌だ」
「なぜ」
「わからないよ! わかるものか!」
ハルディは叫んだ。
「あいつそれ自体が吐き気がするほど嫌なんだ。いつもじゃない。いつもじゃないんだ。だけど時々……耐えられなくなる」
嫌いたいわけじゃない。ただ彼の、何にこんなにも憤るのか、それがわからなくて。わからないことでまた憤る。
りんごは言う。
「それは嫉妬だよ」
全く予期していなかった言葉にハルディは反論の言葉が見あたらなかった。それは肯定ではない。嫉妬。そんなものはあるはずがない。彼が持っていて、自分にはない、欲しいものなんて。
「嘘だ」
やっとの事でそれだけを言う。
「嘘じゃない。君は欲しかっただけじゃないか、ずっと」
「何を」
「それは君が一番よく知ってる」
ハルディはもう一度視線を移してウェーダーを見た。そして唐突に、ベッドに横たわる自身の目で彼を捕らえたのだ
それは一瞬の夢だった。
けれどハルディが真実を捕らえるのには長すぎるほどだった。
ハルディは声のならない声を上げ、格子をつかんだまま涙を流した。
なんて些細なことだったのだろう。
簡単なことだった。
ただ、ハルディはウェーダーの持つ、青い瞳が欲しかったのだ。
その目に広い空を飼っているようで、たまらなく羨ましかったのだ。
自分を見つめるそれが、自分のものではなかったから、よけいに。
「泣くことはないよ、ハルディ」
その体を優しく寄せて、りんごはハルディに囁く。
「誰が君の瞳を青くないと言ったのか」
「だって、それは事実だ」
疑うまでもないことだ。
「なぜ。私は青い鳥だ。君もそれを認めたのに」
「あおい、とり……」
なぜあの時そう感じたのか。
目を閉じれば思い出す、それはあの海の青さ。
なぜ気づかなかったのか。
世界はこんなにも青かったのに。
あの空の色を反射する、どこまでも続く海のように。
青い世界。
そしてそれはハルディの瞳さえ、例外ではなかったのだ。
「ありがとう」
震える声でハルディは言った。
「ありがとう。きっと僕は、今ここではないどこかへ行きかけていたんだね」
あるいはあの空の向こうへ。地上の青さも知らぬままに。
「ここまでしてくれたきみに、僕は何をしてあげられるのだろう。何をすれば良いんだ……?」
涙を落としながらハルディは尋ねた。彼はもう気がついていた。これが最後の会話であることに。
りんごの答えは静かだ。
「できることはあるさ」
そして残酷でさえあった。
「君は私を忘れるんだ。それが最後の仕上げだよ」
ハルディは強く首を振った。「できない」というように。
「寂しいことではないし、まして酷いことでもないよ。これは、私が私らしく一生を終えるための、優しいことだ」
そして最後に彼は言った。
「さようならハルディ。君が、君らしく一生を終えられますように」
そうしてハルディの長い長い夢は、終わった。
「起きた?」
どこか居心地の悪そうな声で、ウェーダーはベッドに横たわるハルディにそう呼びかけた。
ああ、そういえばまた怒鳴ったんだっけ……。
まだ覚醒しきってない意識で、ハルディはそんなことを思った。
「ハルディ、窓から落っこちたんだよ。いくら二階って言っても打ち所が悪かったら死んでるんだから。本当、運が良かったよ」
ウェーダーのその言葉を聞きながら、徐々に目を覚ましていく。
「猫目祭りは……」
訊きながらハルディはベッドの上に体を起こした。
「もう始まってる。まだ猫目石は見に行ってないけど、これだけ買ってきたんだ」
言ってウェーダーは微笑んでハルディの手の上に赤いりんごをのせた。
そのりんごを見つめ、けれど何も言わずにハルディはベッドを降りて窓へ向かった。
格子越しに見える世界。
「……青いな」
「え、何が?空?」
ウェーダーが聞き返す。
けれどハルディはそれには答えず、その赤茶けたりんごに歯をたてた。
カシャリ。
瑞々しい良い音がした。
あとがき
手元にある中でもとびきり古い作品。
15か16の時の話です。何年前かはもう考えたくない。
私の中ではかなりの異色作。どの辺がって、男の子しか出てこないとか。
読んでいた本の影響をものすごく受けていて、正直ヤバイと思うんだけども、
これだけ自分の好きなように文体を既存作品に浸せるというのは、若いゆえであり、幸せなんだと思う。
面白くはないけれど、ただ少し、不思議なお話。実験作です。